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ジーズアカデミー戦記

G's ACADEMY TOKYO でプログラムを勉強してます。もちろんブログは非公式です。

つくれる人 / つくれない人

卒業制作の進捗共有会

この春から通い始めたジーズアカデミーもあと数週間を残して終了となる。デモデーにあたる卒業制作の発表会もそう遠い日程でもなく何だかどことなく忙しない気持ちに駆られている。そんな中で先週だったか、アカデミーの同期生が集まって卒業制作の進捗状況を共有する会というのが催された。

 

参加したのは一部のメンバーだけでまだ開発期間中というのはある。しかし、だ。それぞれに差はあれど、ほぼ全員が「これ完成するのか?無理じゃね??」という状態だったのだ。自分で話しながら、そして話を聞きながら何度も思った。

 

 「これは、、、やばい、、やばすぎる」と。

 

もっともラスト数週間はそれまでの数倍の速度で進むというのが開発というものだと思っているし(←完全なダメ人間)、何よりジーズアカデミーの多数は高学歴エリート。独断と偏見で言わせていただくなら、僕はこういう連中には共通する性質というものがあると思っていて。それは「物事をそれなりのレベルでやり遂げる習慣を持っていること」だ。だから所謂あれだ。

 

 「えー、テスト前だけど遊んじゃって全然勉強してないよー」

 

…。

僕はもういい大人のでこんな安い手には決して騙されない。彼らは何だかんだといって見せるに足るものを作ってくるはずだ、間違いなく。だから「みんな出来てないのか。僕だけじゃないんだ。」なんて安心は絶対にできないのだ。

 

学ぶこと / 作ること

ただそれはともかく、やはり「作ること」の困難というのも改めて感じている。講義期間中はメンバーの異常な習得スピードを目の当たりにして「なんて優秀な奴らなんだ!」と衝撃をうけたのだけれど*1、そうやって「技術を学ぶこと」と今やっているような「プロダクトを作り上げる」ということとの彼我の差はすさまじい。みな明らかに苦戦してる。

 

わかりやすいところで言うと、要求されるスキルセットの広さがとにかくキツイ。フロントとサーバはもちろん、インフラから企画・プロモーションまで全部1人でやらなければいけない。また前のエントリでも述べたように、コードの実装自体とは別の所で1〜2週間スポイルされてしまうとか、できるだろうと目算していたことが色んな理由で諦めないといけないことが後々判明したり、、とにかく開発を諦めさせようとしてんのかよ!というような罠が次々と襲いかかってくる

 

これは決め打ちの教材で勉強だけしてたら絶対に気づけないことだ。だから作りたいと思っている人はすぐに「作ること」を学ぶべきだと思う。

 

女版・まんが道

そんなことを考えていたものだから、先週、東村アキコ『かくかくしかじか』(集英社)を読んだ時には、すっかりまいってしまった。

 

控えめにいっても傑作といえる。おそらく2010年代を代表するマンガのクラシックタイトルになるだろう。

 

 

この東村の自伝的な作品は本人をして「女版・まんが道」などと言わしめるものだが話の主軸は少し違っている。彼女の絵の師匠である「先生」といつかの「ダサかった自分」との物語だ。過去の自分に向き合う東村の筆致は時に胸をえぐるようであり、その一つ一つのエピーソードや感情は、誰しもが持っている「今よりずっと幼かくてバカだったころの自分」への後悔みたいなものを呼び起こす。キャッチーさのなかに己の人生と向き合う真面目さみたいなものが同居していて、サブカルに逃げないメジャータイトルとしての凄みにあふれている

 

どうやら今年のマンガ大賞をとっているらしく、それが逆に良いイメージじゃないのもあって読み控えていた。しかし先日の「漫勉」をみて手にとったのだ。 

www.nhk.or.jp

 

放送後のネットでの取り上げられ方がいくぶん自己啓発的な文脈になっていたのには違和感があった。何だか変に意味を見出そうという態度は作品の価値をいくらかでも毀損して気がしてしまう気がしたのだ。ただいま改めて読んで今の自分と重ねあわせて少し考えをまとめたくなった。このマンガには「どうすればつくれる人になれるのか」についての正体が書かれている気がするのだ。そう、いい作品は読者を饒舌にするのだ。

 

描ける人 / つくれる人

作品のラストに「描ける人」という概念がでてくる。東村が通っていた絵画教室の後輩でマンガ家になりたい人がでてくるのだが、その人は結局マンガを描くことができなかった。いわば「描けない人」だったわけだが、「描ける人」となった東村とは何が違ったのだろうか。

 

それは「先生の存在」だ。東村には先生がいた(後輩はすぐに教室をやめてしまった)。竹刀をもって生徒をシゴいて絵を描かせる、そんなタイプの人だ。彼は口癖のように「描け・描け」と言っていた。意味なんていらない、ただ目の前のもをひたすら描けと。何度も「何を描いたらいいかわからない」という東村や他の生徒に、ただ「描け」という言葉をつきつける。一日も描くことを休むなと。そこで鍛えられた経験こそが、どんな時でもマンガが描ける現在の自分を形成したのだという。つまりそれは身体性を変容させることなのだと思う。ある種の体育会的なシゴキによって「描ける自分」に変えていくということだ。それは特別な技術とか想いの強さとかとは異なる類のものだ。

 

ちなみに『かくかくしかじか』によれば、東村がマンガを書き始めたのは大学を卒業した後だったという。在学中にマンガ家デビューするつもりで美大に行ったにもかかわらず在学中は遊んでいただけだったという。そう、今や当代随一のマンガ家になった彼女であっても普通の弱くて根性のない人間と変わらないのだ(たぶん違うけど本人の申告によれば)。

 

そしてWebサービスを・アプリを作りたいと思っている僕や僕みたいな奴にいま必要なこともハッキリしたかなと思っている。それはただ「やる」ってことだ。息を吸うように開発をする、そういうふうに身体を変えていかなければならないのだと思う。その先に「つくれる人」があるのかなと。

 

いや、少し嘘をついた。そんなことはずっと前から分かっていたことでもある。問題は「その力をいかに身につけるのか」ということだ。どうすれば弱くて卑怯で逃げたがる自分に対する強制力をつくれるのだろうか。激しい職場に飛び込むのも一つだろうし、スクールに通ってお金を使ったり・締め切りを設定するのもありだろう。でもマンガに出てくる「先生」みたいにひたすらやらせる人が居てくたら一番いいのかもしれない。

*1:どう客観的にみてもこれは事実だ